

「落とし物」


野良たぬきが白線の内側、歩道の端をションボリ、トボトボと歩いています。
このたぬきは、群れにも属さず、子供も持たず。
ただただ、孤独な“ぼっちたぬき”でした。
餌を探して彷徨い、特定の住処もなく。
その日暮らしで常に移動を続けているのは、自分を受け入れてくれる何処かを探しているためです。
未だ出会う事は出来ていませんでした。


移動する時は、車や自転車の邪魔にならないよう歩道の端を歩きます。
毎日、色とりどりの箱を背負って、どこかへと向かう人間の子供たちの姿を真似していたのでした。
人間の真似をしても、人間にはなれないけれど。
人間の社会の中で生きるなら、せめて人間のルールは見様見真似でやっていくし。
というのが、このたぬきの信条でした。
ゴミ捨て場を漁ったり、畑で盗みを働くスラムのたぬきなどに迎合する気にはなれず、故にずっと、ぼっちたぬきだったのです。


今日も当て所なく、トボトボ歩くたぬきを追い越していった自転車の幼児用後部座席に座っている子供の帽子が落ち、道路にふわりと着地します。
音を立てていないので、自転車を漕ぐ主婦は気がつく様子はありません。
たぬきは目撃したものの、どうしようか迷いました。


時々、人間が落とした手袋や帽子を拾って身につけたり被ったりするたぬきがいますが、
そしてまた時々、たぬきなのにネコババしたことがバレて蹴られたり、ロクな目にあっていないことを思い出していました。
自分はそんなつもりは無いけれど、あまり身なりがきれいでない野良たぬきはどう見られるか怖くて、誤解のない行動をとれる自信がありません。
落とし物への対処はどうするべきかの判断を決めかねていました。
と、1人の人間の少女が帽子を拾い上げ、声をかけながら走って追いつきます。
「あの…お子さんの帽子、落としましたよ！」
「あら…？ありがとうございます」
「どういたしまして！」
主婦はお礼を言い、追いかけた少女は、はつらつと答えて去っていく。
気持ちの良いやりとりだと、たぬきは思いました。
　

なるほど…ああやって拾ってあげるもんなんだし。
たぬきは踊りもうまくないから。
せめて人の役に立ちたいって思うし。
そうすればいつか、いいたぬきになれるし…。
いいたぬきになれば、誰かに必要としてもらえるし…。
ぼっちたぬきじゃ、なくなるはずだし…。


たぬきは、もしこれから誰かが落とし物をしたら、ちゃんと拾って届けることにするし。
自分の中のルールを確認し、考えていると。
目の前で1人の人間が、飲み物の入った透明な蓋つきコップをバス停のベンチの上に落としていきました。
たぬきの服と似た色のコートを着た女性でした。
まだまだ中身はたっぷり入っていて、これはきっとうっかり落としてしまったんだと、たぬきは思いました。
透明な蓋つきコップを持ち上げて、立ち去って行く落とし主の人間に渡そうとします。
「あの、落としましたし…」
普段1人きりのたぬきは喋り慣れていないので思ったより声が出ないのと、声をかけられた人間側も、まさかたぬきに話しかけられているとは思わないので結果として無視する格好で行ってしまいます。
「あっまってし…」
必死になって追いかけますが、そこは悲しいかな、たぬきと人間のコンパスの差が如実に現れていきます。


距離は開いていますが、交差点で落とし主の人間が立ち止まっているのが見えて、たぬきは安堵しました。
「あっ、し…信号赤だし…」
良かったし。待ってる間に渡せるし。
たぬきなりに全力疾走していたのに追いつけなかったので、正直つらかったところでした。
ところが、女性は左右を見回すと、そのまま進んでしまいます。
たぬきは驚いて、しっぽをびんっと硬直させました。
「あれが赤い時は進んじゃ駄目なんだし…！」
人間の世界のルールなのに、ルールを守らない人間がいる事に驚きつつも、たぬきは急いで交差点まで辿り着きました。
落とし主の人間の背中はまだ見えていますが、再び差が開く事にたぬきは焦れてしまいます。
もどかしく、いっそ自分も進んでしまおうかと思いましたが、タイミング悪く車が途切れず進めません。


何とか落とし主の人間の背中を見失わないようにしながら、走り続けます。
たぬきは、諦めませんでした。
拾ってしまった以上、届けてあげないといけないし。
道路の角を何度も曲がり、通ったことのない道を駆け抜けて。
やがて、多くの人間が飲み込まれていく巨大な建造物の元に辿り着きました。
駅でした。落とし主の人間は、足を止める事なくその中へと進んでいきます。
たぬきは入っていいものか迷いましたが、構内は飼い主とお出かけしている飼いたぬきもうろついているのと、休日で人が多いのもあって、誰も気にしていません。
このたぬきの身長は、一般的な成人男性の膝下ぐらいでした。
偶然、改札をくぐる人にぴったりひっつく形で通過できてしまい、たぬきは落とし主の人間を追いました。
偶然、エスカレーターのある駅でしたので、たぬきは初めて乗る“動く階段”にそわそわしながらも、じっと耐えます。
周りの人間たちは無関心でしたので、何事もなく降りることが出来ました。
落とし主の人間が電車の中に入っていくので、たぬきも急いで乗り込みました。

「電車にまで乗っちゃったし…」
たぬきながら、この乗り物が電車というのは知っていました。
前に、親たぬきがチビたぬきに教えている所に出くわしたからです。
あれに乗っていけば、たぬきじゃたどり着けない遠いところまで行けると、親たぬきが説明していました。
けど、この踏切という場所で、黄色と黒の棒が降りてカンカンと音が鳴っている時は近づいてはいけない。それを破れば、音に驚いてジタバタしているたぬきなど簡単に潰されてしまうと、少し声を低くして教え込んでいました。
けれどもその時のチビたぬきは、線路の怖さより乗り物への興味が勝っていたようでした。
“まま、チビあれ乗ってみたいし…”
“どこから乗るし…？”
“駅っていう箱だし…野良のたぬき達じゃ入れないし…”
“ｷｭｩｩｰ…ざんねんし…”
というやり取りを覚えていたので、物怖じしながらも進む事が出来たのでした。


間に合って、良かったし。
きっと、これまでヒトに迷惑をかけなかったおかげだし。


無賃乗車というルール違反を知らないたぬきには、とにかくこれを届ける事しか考えられません。
電車内は人が多く、立っている人ばかりなので移動は難しいようです。
幸い、たぬきと同じ色の服を着た人間は他におらず、落とし主の人間の姿は遠くに確認できているので目を離さないようにすれば見失う事はなさそうでした。
たぬきは踏み潰されたり蹴られたりしないよう気をつけながら、飲み物の入った容器をぎゅっと抱きしめました。
拾った時より、重みを感じる気がしました。


落とし主の人間が出て行くのを確認して、たぬきは慌てて電車を降りました。
道行く人間達の邪魔にならないよう、階段をモチモチと登り、
再び運良く他の人間にはりついて改札を通り抜けます。
きょろきょろと周囲を見渡し、落とし主の人間の後を追いました。
幸い、降りた所は人がまばらで、他の誰かにぶつかる心配も見失う心配もありませんでした。
懸念があるとすれば、いつまで経っても距離が縮まらない事だけでした。
しかしそれが、何よりの問題です。

「はっ、し…はっ、し…」
息を整える間もなく、走り続けた足はもつれ、ぼろぼろになっています。
自慢のしっぽも地面に何度も擦れて、汚れきっていました。
たぬきは、もはや疲労困憊でした。
喉も乾いて、カラカラです。

あれ…たぬきはどうして走ってるんだっけし…？
別にこれ、渡さずに飲んじゃっても、ばれないし…。
もしかしたらあのヒトは置いていったのかもしれないし…。
…本当に、そう思うし？
忍び寄るわるい心を振り払うように、たぬきはブンブンと首を振りました。
だめだし！
がまんするし！
ションボリするのは、たぬきだけで十分だし…！
何とかして、あのヒトに届けてあげるし…！
萎えそうになる足に力を入れ直し、たぬきは再び走り始めました。


落とし主の人間が、立っているのが見えます。
今度は大通りの信号でしたので、落とし主の人間も流石に進めないだけでしたが、
ちゃんと立ち止まってくれたのを見て、たぬきは思わず泣きそうになりました。
そうだし。あれが赤い時は進んじゃ駄目なんだし…！
やっと守ってくれたし…！

「たぬきとおんなじ色の！服のヒト！落としましたしーーーぃ！」
女性に向けて、残る力を振り絞り、声の限り叫びます。
信号が変わる前なら、気づいてくれる目算が高かったからでした。
特徴を伝える事で、落とし主の人間はこちらを向いてくれました。
最初からこうすれば良かったんだし。


「あのっ…あのし！」
見知らぬたぬきに話しかけられ、周囲の好奇の目を浴びて、奇しくもたぬきと同じ色のコートを纏った女性は引き攣った表情で自分を指しました。
「え…私？」
「落としましたし…これ…！落としましたし…！」
ぜぇぜぇと息を切らしながら、見知らぬたぬきが蓋付きの透明のコップを両手で差し出してきます。
呼びかけられた女性は、戸惑いました。
確かにこれは、自分がテイクアウトしたキャラメルコーンレモンスカッシュ味ドリンクver.でした。
あまりにも美味しくなかったので、バスを降りたら捨てて行こうと考え、実行した代物でした。
たぬきはこれを自分に渡して、どうしようというのか。
金銭や勲章、あるいは庇護を要求されるのかと身構えましたが、たぬきに恩を着せようとしている様子はありません。
ただ純粋に、これを届けようとした事になります。
けれど、これを置いてきたのは電車に乗る前だったはず。
と、いう事はこのたぬきはどうやったのか不明ですが電車に乗ってまでついてきた事になります。
何の得があってそんな事をしたのか。
たぬきの行動原理がわからない女性は、必死に追いかけてきたであろうたぬきに、
“それ、いらないから置いていったんだけど”
とは言える空気ではありませんでした。
「ありがとね」
「どういたしましてし…！」
それだけやり取りをして、“落とし物”を受け取ると、女性はそそくさと立ち去ります。
流石に悪いと思ったのか、たぬきの見えないところでゴミ箱に入れました。
これからは、ちゃんとゴミ箱に捨てよう。
軽率な行いをちょっぴり反省して、女性は再び歩き始めました。
あの不気味な野良たぬきがついてきていないか、時々、振り返りながら。


たぬきに後を尾けられるなんて、気味が悪すぎる経験だわ。
このコートも気に入っていたけど、“たぬきとおんなじ色の服のヒト”なんて不名誉な名前で呼ばれるならマルカリに出す事も考えなければ。
あの時、周りに居た人達の中から笑い声が聞こえていたもの。
色合いだけで野良のたぬきに仲間と思われ近寄られたりしたら嫌すぎる。


たぬきは自分に向けられた嫌悪は露ほども知らず、額に滲んだ汗をモチっとした腕で拭いました。
「やりきったし…」
きちんと届けて、いい事したし。
これで少しは、いいたぬきになれたかし…？
しかし、評価とは自分ではなく他人や他たぬが決めるものなので、ぼっちたぬきはまだまだこれからだと思い直しました。
そうして満足して、冷静になって、やっと気がつきました。
自分は今、どこにいるのかわかりません。
電車に乗ってきましたが、元いた場所の地名など、たぬきにわかるはずがありません。
真っ直ぐ見ても、後ろを振り向いても。
右を見ても、左を見ても。知らない景色だけが広がります。
たぬきは、だんだんと不安な気持ちでいっぱいになってきました。
「…これから…どうしようし…」
元々1人きりだったので、孤独による不安はありませんが、
餌場もわからないし、他にどんな生き物がいるかもわかりません。
自らがたぬ生の落とし物になってしまった、野良のたぬきを。
拾ってくれる誰かはいるのでしょうか。


でも野良たぬきは、考え直しました。
どこにいたって、たぬきはたぬきだし。
元々、たぬきを受け入れてくれる場所を探してうろうろしてたんだし。
また、ここから始めればいいし。
ションボリした面持ちで、たぬきは歩き出しました。
白線の内側、歩道の端ーーー。
人間達のルールをまたひとつ学び、トボトボと歩いていくのでした。



オワリ


その後は好きに想像してくださいし…。

